野口先生のお話 空想
2023年11月30日
堺市中区にある、みらい整体院
誰もが本来もっている 体のあるべき状態を知っていて
骨盤・背骨の異常を見極め
自律神経の調節・運動調節をすることで
バランスを整えることが得意とする藤本です。
本日は、野口先生のお話を書かせていただきます。
面白かったのでシェアさせてください。(^_-)-☆
空想の方向づけ 2
依存期の独立の要求
野口晴哉
子供は絶えず親の注意を集めようとして、親の嫌がることばかりやる。
お客様が来ると騒ぐ、騒げば親がむきになって抑える、抑えるから注意が集まる。注意が集まるから子供には快感がある。
そして他のことで注意を集められなくなると、寝小便などをするようになる。
だから、この時期の子供は、いつでも注意を要求し、叱られようと、褒められようと、親の注意が集まる度合、集注度の多い方向に向かって行為をするのですから、叱られることを繰り返しても不思議はない。
それに乗って、叱ったり、小言を言ったり、寝小便することをなげいたり、こぼしたり、むきになってこんこんと意見したりするのは、この時期の子供に翻弄されているといってもいいと思うのです。
それを寝小便を治してくれなどと人に頼むから、親の注意がそこに集まっていることが明らかに出てしまうので、今度はその頼まれた人が骨を折らなければならない。
骨を折るから注意が集まり、注意を集めすぎるから治らないということになる。
そうなると子供に大人が完全に翻弄されていることになる。
よく、この子は弟や妹をいじめて仕様がない、いじがわるいと言って叱りますが、長男にしてみれば、自分に対する親の愛情の半分を次の子供にとられてしまっているのです。
大人は公平に半分づつだと言いますが、一〇〇から半分とられれば五〇になってしまうのです。これは感受性の面から言って公平とは言えない。必ず上の子に不平がおこる。
まして親が 小さいんだからと言って下の子をかばっていたら なお不平がつのるし、小さい子をいじめればサッと親の注意が自分にむくということなら、あえていじめざるを得ない。
総てを親に依存して生きる子供達がそういうことで親の注意を集めようとし、それに親が翻弄されたとしても子供ばかりは責められない。
子供はただ親の注意の集注の密度が濃くなることを望むだけなのです。
それが子供の生活の手段であり、それ以外に方法がないのです。親の注意を集めることだけで生きているのです。
だからこの時期の子供に親がひきずられて忙しがっているのは、子供の要求が無理なのでなく、親が叱ったり褒めたりして、一人で自分の言葉に酔っているからです。
子供には分かったように思えても分からないことが沢山あるのですから、言葉ではだめなのです。
子供は親の注意の集注密度だけを求めている…。それが空気と同じように生存のエネルギーになっている。
だから親の注意がはずれると子供は病気をします。 子供が病気になるのは偶然ではないのです。みんな親が忙しいときに病気をする。
親の注意の密度が稀薄になると、子供の中に親の注意の喚起を求める要求が病気という現象をおこすといえないこともない。
親の注意の密度の薄れたことに対する生理的な要求だと思うのです。
怪我をするのも、ころぶのも、着物を汚すのもみんなそうなのです。
だからそれを親が、子供の注意の密度の要求、つまり依存期の子供の要求とみれば少しも無理がない。
そういう面から対処すれば適当な方法が産みだせると思うのです。
叱るとか褒めるということでも、まだ賞罰ということが分からない子供に、自分の言葉に酔って罰のときには注意を集め、褒めるときにはあまり注意を集めないということが、悪いことをする子供にしてしまっているとしたら、子供が悪いことをしたからといって一 概に子供が悪いと思うことは間違いではないだろうか。
それを「うちの子は悪くてこまります」などと平気で言っていますが、それは、「馬鹿なのは私でございます」と言っているのと同じことなのです。
二十歳になっても三十歳になっても、この依存の時期を脱却していない人がよくいます。会社へ行けば上役に褒められようとして上役の注意をひくようなことばかりやる。
家に帰れば奥さんの注意が自分に集まっていないとブツブツ言う。
昔、ゼンソクのご亭主をもっている奥さんがいました。二人ともこの依存の時期のまま成長してしまった人でしたが、いつでも同じところに下駄をそろえて、同じところに座蒲団をひいて、同じお菓子をだす。
大晦日の日に突然とびこんでも、やはりキチンとしている。
ゴタゴタがあって、今日こそちらかっているだろうと思ってとびこんでみてもキチンとしている。
そこで私が、「お宅の便所はきれいだ、玄関もきれいだ、部屋の中もきれいだ、あなたのやっていることもキチンとしている。
しかし、これでは会社でいろいろなことがあってムシャクシャして帰ってきても、奥さんに小言を言うスキがないではないか。
車は摩擦がなかったらブレーキをかけても止まらずスリップしてしまう。
飛行機は空気の抵抗をさけるために流線型になっているが空気がなかったら飛ばない。
だから二人が小言を言い合う中に鬱散の機会があるのだから、小言を言うスキを与えることも必要なのではないだろうか。
亭主のゼンソクをなおすためには、それくらいの注意をはらってもよかろう」と言ったら、「いや、亭主は自分の趣味でゼンソクやっています。
私は私の趣味で清潔にしています」と言う。しかし、その奥さんは時々胆石をやる。ところが彼女は胆石になると途端に気絶してしまう。
あわてるのはご亭主だけで、私が行って活を入れるとすぐ気がつくのですが、そのときはもう経過したあとで痛いのを知らない。
痛いと思うと同時にサッと気絶する。 自分が苦しまないから、亭主のゼンソクの苦しみを認めない。
気絶し経過してしまう胆石にくらべるとゼンソクは苦しいのですが、それを認めない、いつでもスキなく小言を言っている。
今は、そのご主人も八十を過ぎ、奥さんも七十を過ぎていると思うのですが、私が不意に訪ねても、やはり玄関にチリ一つない。
あんまりくやしいから下駄箱には泥がおちているのではないかと思って見ても泥一つおちていない。
確かにこのように自分のことだけしか考えられないということはやはり依存期にあるからであって、独立していないから自分のことだけしか考えられない。
だから親が子供は勝手だと責めるけれども、それは親が独立していないからです。
大人になると、他人がそれをどう考えているか、他人に迷惑をかけていないかというように他の人のことを考えるのに、依存の時期のまま大人になっている人は考えない。
講習会などでも時々訳の分からない質問をする人がいます。つまり〝我ここにあり”と示したいのです。
しかし、これは独立した状態のように見えますけれども、自分の不安の表現であり、何か他と変わっていないと不安であるという、不安感にかられて、〝我ここにあり”を示そうとする。
これは大人になっても依存の時期を脱していない状況とみてさしつかえない。
大人になっていても、この依
存の時期を無意識に温存している人はたくさんいます。
私自身も依存している部分も沢山あるような気がしました。
全てにおいて独立した大人になりたいと感じました。(^_-)-☆
色んな症状も集中密度を上げるための行動が多いのかなっと
思いました。(^_-)-☆
集中密度が欲しい方は
(笑)(笑)
みらい整体院にお越しください。
お待ちしています。(^_-)-☆
心の問題は体に影響しますよね。(疲労感)
体の問題は心に影響しますよね。(疲労)
解決策は自分の中にあると思います。
主体はやっぱり・・アナタです。
補いサポートできるのは・・・私くし藤本です。(^_-)-☆
生活習慣の(①冷え・②食べ過ぎ③偏り疲労④精神的ストレス)見直しは
健康に対しての絶対条件だと理解しています。
皆さまのお手伝い(サポート)できれば嬉しいです。(^_-)-☆
体質改善して楽しい毎日をお互いに目指しましょう。(‘ω’)ノ
では!お会いできることを楽しみにしています。